【コラム】令和型CSRの再考、少子高齢化がもたらした「者」
先日、千葉県市原市五井駅を拠点に開催された「リノベーションスクール」という企画に地域の講師的立場で参加して参りました。
僕は多分この街で最も所謂「まちづくり」から遠いところに位置する人間なので、当たり障りなく、行政の皆様が安全に、この企画が成功するべく、できるだけなりを潜めようとする予定でした。
このリノベーションスクール(以下リノスク)は「まちづくり」に興味がある受講生が実際に空いている物件を拠点に活用方法を3日間かけ考えたのちに公開プレゼンする。的な、イマドキ官民連携イベントでして、僕の班に参加してしまった(!)受講生の方々は各々個性が分かれる5名でした。
プレゼン内容はyoutubeにあるので、詳細はとりあえずここでは割愛するのですが、今回幸運なことに受講生の方々の考えがかなり僕が最近言語化したかった事の要素を持っていたので、頭の整理も兼ねてここにまとめておきたいと思います。
令和型CSRの再考
表題に書きましたCSRとはワイマール憲法に基づいて提唱されるぐらい「古い」概念の一つです。Corporate Social Responsibilityの略称、日本では企業の社会的責任と訳されますが、簡単にいうと利潤を追求する企業活動をするなら、その責任として社会に貢献しましょうねという事です。
2000年代ごろから日本では一般的な標語になりつつあるなという感じなのですが、最近ではSDGsの企業広報的気持ちよさに押されて、少し時代遅れな感じになってしまっている気もします。いずれにせよ、ふわっとした意味で企業はいいことをしようね!というふうに解釈してしまっていいかと思います。
そんな中で、今回のリノスクのお話をいただいた時にこのCSRの概念を令和最新版にアップデートできないかな!と思っていたのです。が、あまりに真面目でつまらなくなってしまいそうだったので何も言わなかったです。ですが結果として遠からずな感じのプレゼンになったのでよかったなと思います。
ではこのCSRの概念の何をアップデートするのかと申しますと、CSRのC、すなわち令和における「企業」の形。ここを令和最新版(気に入った)にしなければならない。ということで少しお話しを。
令和における「企業」のあり方
こちら中小企業庁のめちゃわかりづらい資料なのですが、要約すると
・製造業をベースにした大企業はそろそろキツいっぽいから公金で生かすように
・中小企業減った代わりに大企業増えてるね!(吸収合併も相当数ある)
・小〜中規模事業者はいっぱいお金貸すからがんばってね
・個人事業主とか副業いいと思うよ!増やしてこ!(大企業がずっと面倒見るのキツいし)
という感じです。
いいか、悪いかは別としてこれからの時代に「個人」として生きなければいけなくなるのはもはや確定的です。個人的に日本は社会主義的な働き方の昭和平成スタイルが似合っていたと思うので、なんだか生きづらい人多くなりそうだなぁ〜という感じで心配です。
話が少しずれましたが、まあ何が言いたいかというと
これからは「個人」が社会的責任を果たさなければいけなくなる
ということです。
え、めんどくさ。と感じる思うんですよね、普通に。
でも、今回のリノスクに参加していた受講生の方々は漠然と責任の果たし方を模索されていました。何も全員が社長ではありません、普通にサラリーマンの方もいました。
僕含め、その責任とやらをはたそうとしていた人々に共通するのは「大人である」
ということでした。精神的に成熟しているとか年をとっているとか、そういう意味での大人ではなく
大人としての社会的責任を子供達に感じている
という意味です。すなわち、これまでは企業の経済活動に伴う社会的責任に基づいて社会の歪みをカバーしていたのが、この時代においては企業の経済活動すらままならないので、社会全体に生じる歪さをカバーすることができなくなった結果、それを見過ごすことのできない個人に責任が降りてきている。ということです。(わかりづらくてすみません)
例えとして「子供」に対する社会的責任の例を挙げましたが、他にも環境や人権、貧困やフードロスに至るまで、すでに個人レベルで社会的責任を果たすべく奮闘している方々はたくさんいらっしゃいます。
ですが、ほとんどの場合、一握りの、たまたま生活に余裕のある人しか社会活動に参画することができておらず、それ以外の人々は生活に追われ、じわじわと社会の歪みに飲み込まれていくしかないのが現実かと思います。
そこで、CSRの概念を再考し「個人」が社会的責任を果たしやすくする必要があるのです。
そこで、先日のリノスクに絡めて、具体的な例を一つ挙げたいと思います。
まず、責任の所在を3つに分散する必要があります。
ここで言うCSRの「C」はCorporateではなくCityとCash(casa)に当たります。
Citizenである、市民は大人としての責任に基づき子供たちの未来の選択肢を増やすこと
Cityとして、行政権はその責任において市民活動を資金や人員、広報の面でサポートする
Cashとは、ラテン語に由来するcasa(家)から派生した言葉で、金と箱の属性を持ちます。すなわち不動産オーナーが場所を提供することは広義での社会的責任にあたるはずです。
このような形で社会的責任の所在を3つに分散することで、令和においてはようやくCSRを遵守することができるのではないかと考えます。
今回、たまたま僕が良いお付き合いをさせていただいている不動産オーナー様が相場よりも非常に安価で場所の提供をしていただいております。これは明らかに良心に基づくもので、良い不動産オーナー様は無意識にCSRを体現しているものだなと感謝しました。
その上で、市民として何人かの方が活動をしたいと申し出ていること、僕を含めた近隣で商売をする事業者が協力体制を敷くこと
そして、行政としてやれることの幅を最大限にしていただく事
この要素が全て揃わなければ、いつか誰かが負担を強いられることとなり、円滑かつ持続可能な社会活動を遂行することはできないと思います。単発の社会貢献イベントならばいざ知らず、それこそ持続可能であることが旧Corporateに由来する「令和最新版CSR」のモデルケースになるのではないでしょうか。
そして、この個人によるCSRの最も良い点は対象をかなり細分化することができると言う点にあります。
先ほども書きましたが、今回はたまたま「子供」に対する責任を感じている受講生の方々が集まりましたが、環境に対して大きな責任を感じている市民であればその本拠地にしていただいてもいいと思いますし、どこかで同じような形の場所づくりができたのであれば、大きな企業が社会全体をカバーするよりも速やかに活動が実行できるのではないかと思います。
加えて、重要なのは「大きな政府(又は企業)」から「小さな政府」に転向し、民間の役割を増やすのではなく、大きければ大きいほど民間の活動の幅が広がると言うイメージです。
富裕層と貧困層の対立ほど無益なものはありませんし、ましてやリベラルや保守で対立しているほどこの国は豊かではありません。
今、最も求められているのは直近の社会的課題に対して速やかにサポートの体制を敷くことであり、そのためには裕福な人はもっと裕福に、貧しい人は可及的速やかに最低限文化的な生活を取り戻し、行政権の責任としてここに最大限の努力をしていただく。
そうすることで未来の「まちづくり」は良い方向に向かっていくのだと思います。
またまた話が逸れかけましたが、ここで表題の少子高齢化がもたらした「者」について
「者(モノ)」とはこれまで物質的な価値が人々の生活を豊かにしてきた「物」からの不可抗力的な転換です。
平均年齢が50代に差し掛かり、人口が減少するこの国において、50代以下の僕たちで物質的価値を最大化することが難しくなるのは明白です。
そこで、歪みを正すべくもたらされた「者」が現状の最大の資源であり、ここへの投資やサポート体制は結果として物質的価値を取り戻すきっかけになるのです。
物質的豊かさから人々のつながりに移り変わる。のではなく、「者」が「物」を連れてきた結果、物質的にも人間的にも豊かな生活を取り戻すことにつながるのではないかと思います。
・・・と、かなり長くなりましたので、とりあえずこれぐらいにしておきたいと思います笑
なんか文章力おちたな〜と思うのですが、その分色々やってるから許してね!
次回以降、少しだけキラキラした、楽しいお話しをできればいいなぁと思います。
それでは、年末に向けて皆様お体ご自愛くださいね。
長文お疲れ様でした!
宮坂 泰知